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音楽が人生を変えた!


音楽って子供の頃、嫌いだったなぁ。
 なんだか無理に習い事させらりたりした記憶があって。
 初めて中学の時ギターを触った。当時は不良の気分だった。 レコード屋さんでローリングストーンズを手にしていると ばったり出くわした英語教師から それは不良だからビートルズにしなさい。 なんて言われたりして。
 音楽と出会って、もう何十年も過ぎた。 でも今も恋人のように俺にとって新鮮な存在だ。

楽器紹介

音楽との出会い



 中学生の頃。突然、友達が目の前でギターを弾いた。知らない世界があった。
街では、ショッキング・ブルーの「ビーナス」が流行り、ビートルズが「ゲット・バック」をうたっていた。
実はこれでもまだ音楽に触れようなんて思ってなかったんだ。
中学時代、俺は剣道部でこれでも硬派だった。高校に入学して、クラブを色々覗いてると 中学剣道部の先輩と会う。
「おう!俺のいる同好会に入れ!」これは体育会系の命令だと思った。そのクラブは、なんとフォークソング同好会だったんだ。
はじめて岡林信康や吉田拓郎を聴いた。「なんだ、誰でも歌っていいんだ。」と知り、急に心が晴れた。
ボブ・ディランを聴き直して、改めて音楽の凄さを感じた。ギターを手にした。
怖さを知らない俺はいきなり、吉田拓郎の歌でコンサートに立つ。
その時K学院高校のクラスメートにRGとBGを頼む。実は44才になった今も、この時のRGのT君とは一緒に演っている訳で、実に長いつきあいになる。
でその連中に誘われて、ハードロックにも手を染める。
 とりあえず、なんでもやった。ディープパープル、ツェッペリン、グランドファンク・・・その一方でフォーク&ロックも続けていた。
2,3年毎日のように詞を書いた。日記のように。自分の世界に埋没していた。

音楽が全てだった頃

Folk&RockからRock’Rollへ
福岡の大学に通うようになって、大学の友達と自作のフォーク&ロック・バンドを結成。定期的なコンサート活動を行う。
一方でアメリカの伝統的音楽を聴き始め、カントリー・ウエスタン、ラグタイムなどをこっそり演奏するため、バンジョーやブルースハープをいじるようになる。
大学時代、自分には音楽しかなかったように想う。自分のなかの音楽探しの旅がずっと続いていた。
 出会い、恋、考え、意見、くつろぎ、友達・・・すべてを音楽として吐き出さないと生きていけない気分だった。

熊本で就職して、少しの間自分の音楽と離れた。会社にギターを持ち込むのは宴会などで人の唄の伴奏なんか弾くくらい。
少し距離が開いた感じがしてたある日。
またも高校時代から一緒にやっているT君と遭遇。またバンドをやろうと話が盛り上がった。

当時、アメリカ指向の強い時代。映画「アメリカン・グラフティー」を見た直後だったか(笑)、
「それじゃRock’Rollをやろう!」って事に。

再び、音楽生活が始まった。メンバー5人のR&Rバンドの誕生。1950〜60年代の名曲で学園祭を荒らし、 時には仕事も休んで福岡のライブハウスを梯子した。
熊本では全く放送できない名前のライブハウス「気違い部落」で毎週のように演奏した。 得意のオチャラケMCもあって、そこそこの人気を博す。
その当時、その店のもうひとつの看板ブルースバンド「ファンデーション」を聴いて初めてブルースなる曲を知る。
しかし、当時、ブルースに触覚が反応した記憶はない。


Rock’Rollでは大変おなじみのナンバー
ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ
チャック・ベリー
エルビス・プレスリー
ポール・アンカ

まぁ、色々やって演奏して、唄って、踊って26才になっていた。
そして、あるステージ、とあるツイスト曲の間奏に一踊りしてマイクを握ったら 息切れで歌えなかった(笑)。
 俺のRock’Roll人生は儚くも終わった。


そしてブルースマン

27才になった。
なんとなくぶらついているど、放送禁止店名のライブハウスであったブルースバンドのギターから 「一緒にやらないか?」と声をかけられ、訳の解らんレコードを手渡される。
今にして思うとポール・バター・フィールド・バンド。5分以上聴くと眠くなって・・・とてもコピーなんて出来なかった。
それでも無理して2,3曲覚えて一緒にしたがうまくいかず、そのバンドはそこまで。

俺は、再び高校の同級生T君とあい、なぜか「おい、ブルースは、なんかかっこいいよ。やろう。」
なんてその気もなかったのに言い出してしまった。


 
その当時、現在のベーシストAさん(実はK学院高校の先輩)と出会う。
ブルースメッセンジャーズなどと恐れを知らない名前を付けて 英語の歌詞が苦手だった俺は、オリジナルと称し、適当な歌詞をつけて、日本語で歌う。
調子に乗ってスタジオ録音し、テープを作り、親戚・知人に500本ほど売りまくる。
しかし、金が絡んだせいか、録音を追求したせいか、KbのNさんの脱退、Dsの脱退と相次ぎ、皮肉にもTAPE販売直後にして、あえなく解散。
録音がバンドにとってよくないことを悟り、その後録音と聞いたら耳を塞ぐことにしている。

 また何年か過ぎ、年をとった。俺とT君もついに40代、はや50前のAさんも誘って、 若き?30才のS君をDsに加え再びバンド結成。
特にライブ活動する訳じゃなし、とにかく長くやることを目指して、練習している。
曲は、前のまんまのオリジナルブルースにたまに新曲を加えて・・・
でもそれが、なぜか結構新鮮に思えて楽しいのは自分でも不思議だ。

 若い時に比べると少しだけ音楽との距離が開いた気もするけれど「現役」でいる事に誇りを持っている。